無師独悟
お勧めの一冊です。
(すべて抜粋です)
目次 はじめに 達磨の心 般若の論理 見性 直用直行 不立文字
事の世界 悟りの世界 現実 自己 一切転倒夢想 禅問答 無師独悟
はじめに
”悟り”はいうまでもなく仏教の存在理由である。
仏教にはその根底に悟りというものがあったからこそ2500年という長い年月に堪え、
アジアのほぼ全域にに広がり、東洋文化の礎となってきたのである。
ところで、この仏教の”悟り”ということばに対して読者は何らかの先入観をもっているはずである。
それは、近寄りがたい崇高なもの、不可思議なもの、なにやらあやしげなもの、古くさく抹香くさいもの、
一種の錯覚による自己満足、エクスタシー、超能力、等々いろいろであろう。
次のエピソードは明治時代の落語家三遊亭円朝が悟りをえた時の様子であるが、
はたしてこれらの先入観のいずれが当を得ているだろうか。
「ある日大和尚(西山禾山)が急に禅室へ召されますので、とりあえず参りますと、
大和尚が威たけだしく『円朝』と呼ばれますので『ハイ』と答えますと、『わかったか』とおおせられますゆえ、
『わかりませぬ』と申し上げますと、大和尚は例の目をむきだして『汝、返事をしながら、わからぬか』と一喝され、
また『円朝』と呼ばれるので、『ハイ』と答えますままに、豁然省吾いたしました。
そこで私は初めて円朝が『ハイ、ハイ』ではなく『ハイ、ハイ』が円朝である、と合点しました。」
ここで円朝が悟ったと自覚(合点)したものはまぎれもなく2500年前の釈迦の悟りそのものであるが
はたして読者の悟りの先入観から比べてみていかがであろうか。
「円朝が『ハイ、ハイ』ではなく『ハイ、ハイ』が円朝である」という真意は一体どういうことであろうか。
中略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
自分に潜む未だ見ぬ真の自分を頼りに2500年という悠久の時間とアジア全土という広漠たる空間を
舞台とする壮大なロマンに身を投じるのである。
平成十年五月五日 別府慎剛
悟りの世界
私たちはどこから来てどこへ去って行くのだろうか。どこからどこへという以上、
今いる所が分かっていなければならないが、はたして、こうして今いる所がわかっているだろうか。
私たちは何を分かっているというのだろうか。私たちは、今、一体何をしているのだろうか。
生きているということは不思議である。世界があるということは不思議である。
超能力とか心霊現象とか超常現象とかUFO等の暇つぶしの不思議に騒ぐ以前に、
私たちは十分に根本的な不思議に直面しているのである。
読者には、今、この本を読んで頂いているのであるが、読者の目の前にあるこの本が
「あるといったら間違いであり、ないといっても間違いである」といわれたら、
おおかたの読者は「あるに決まっているものを・・・・・・・」と一蹴するだろう。
私たちのものの見方、考え方は一様である。私たちには普遍的な世界観がある。
私たちには普遍的な事実認識に基づく世界観がある。
人種を超え国境を超え時代を超えて、誰しも決して疑わない疑いようのない事実認識がある。
それはここに私という人間がいて自然を意識しているという事実認識である。
私と自然(物質)、つまり精神と自然という二つの実体(恒常的な真の存在)があって、
その間に意識現象(経験)があるという事実認識である。読者には今この本を読んで頂いているのであるが
読者という精神を持った実体がこの本という実体を見ているという経験をしている、
そこに意識現象があるという事実はあまりにも明らかなことである。
しかし、古来、この自明の理というべき「私の目の前に本がある」という事実認識は、仏教においても、
私たちのもののみかたを代表する哲学においても、簡単に自明の理としてかたずけられる問題ではなかったのである。
なぜなら私たちが「私の目の前に本がある」というとき、それは既に矛盾だからである。
(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
麻谷禅師が扇を使っていた。そこにある僧が来て問う、風性は常に存在するものであり、
どこにでも存在するものであるのに、どうして扇を使うのかと。和尚がいうには、おまえは頭で概念としての風性
というものが存在すると知っている、風というものが存在すると思っているが、しかし、まだ処として周らざるなし
ということを知らない。周るということは動きであり働きであり現象である。風は現象である、
風という現象がが出てくる為には扇であおぐという現象がなければならない。あおぐという現象に伴って風という
現象が現れるのである。現象の原因は現象である。現象の結果もまた現象である。
現象の世界には現象しか存在しないのである。現象の世界で現象を知るということは現象そのものになって
働くということである、行為するということである。「行為即知」すなわち「行即知」すなわち「扇を使うこと」である。
私たちは「私が意識する」といい「私が働く」といい「私が行為する」という。
私は一旦意識しないもの、働かないもの、行為しないもの、つまり一旦死んでいるものとされた上で、
言いかえれば実体なるものにさせられた上で意識や働きや行為が与えられる。
しかし実際は意識するのが私であり、働くのが私であり、行為するのが私である、
すなわち私は実体ではなく、私は現象であり現象が私なのである。「色即是空・空即是色」である。
一旦殺してしまって、そしてそして構成して知るという概念による知識的構成作用ではなく、
現象を現象として生きたまま把握すること、つまり「働くことが知ることであるということを体得すること」
が悟りであるが、『般若心経』はこの立場に立って説いた経なのである。
一切転倒夢想
ヘーゲルの膨大な哲学体系も盤珪(1622〜1693)の「不生」一言には及ばないのである。
「仏心は不生で霊明なものと決まりました。不生は仏心で、仏心は不生でいっさいの事がととのいます。
だから皆さん不生でおいでなさい。不生でおいでになれば、諸仏と同じというものでございます。
尊いことではありませんか。仏心の尊いことを知りますれば迷いたくても迷われません。
ここがしっかりとわかれば、たった今、不生でいる所で十分で、
死んだ後不滅の生を得るだのどうのということはなくなります。生じないものが滅するわけがありませんから。
(中略)不生であらゆることがおさまります。
その不生でおさまる不生の証拠は、皆さんがこちらを向いて、私がこのように話をしているのを
聞いている間に、うしろのほうで鳥の声、雀の声などそれぞれの声を聞こうと思う念を生じないでも
鳥の声、雀の声がちゃんとわかって、間違えずに聞こえるのが不生で聞くというものでございます。
そのようにすべてのことが、不生でうまく運んでいきます」
この盤珪の優しく平明な表現は哲学の難解さとは無縁であるが、いわんとしている内容は深い。
「たった今、不生でいる所」、まさにこれこそが「いま、ここ]であり、
絶対我つまり「仏」がいる時であり「純粋意識現象」が存在(生起)する時でありする所である。